Memory, in Sediment
瀬戸内海には、大小およそ三千の島が浮かんでいる。 そのうち人の住む島は八百ほど。残りは、かつて誰かが住み、いまは誰も住まない島か、 最初から誰も足を踏み入れなかった岩礁である。 鶴島は、その「いまは誰も住まない」側に属している。
だが、無人であることと、無名であることは違う。 この海域には、神話と水軍、廻船と塩、そして近代の静かな撤退—— 幾重もの時代がそれぞれの記憶を残し、現在の海面の下に折り重なっている。 鶴島の砂浜を歩くとは、その地層の最上層に立つということだ。
これから語られるのは、鶴島という一つの島の物語ではない。 瀬戸内という海が、千年にわたって積み重ねてきた記憶のいくつかの層を、 現在の静寂の下から、そっと掘り起こす試みである。
古代——いまの岡山平野は、まだ海の底に近かった。 瀬戸内の北岸には「吉備の穴海(きびのあなみ)」と呼ばれる浅い海域が広く広がり、 三本の大河から運ばれた土砂は、何百年もの時間をかけて、ゆっくりと平野を生み出していった。 鶴島のような小さな島影は、その穴海の沖合で、波と潮の中継地として静かに浮かんでいた。
『古事記』や『日本書紀』には、吉備の児島の名が繰り返し現れる。 神武天皇の東征譚にも、日本武尊の物語にも、吉備の島々は登場し、 塩を、米を、そして人を、海上で受け渡す要衝として記されている。 瀬戸内のほぼ中心、東西交通の結節点—— その位置が、後の幾世紀にもわたる物語の舞台を約束していた。
鶴島という名のもとに、いつ誰が最初に上陸したのか、史料は語らない。 だが、潮の通り道に浮かぶ小島には、必ず誰かが寄った—— 漁師が、塩を焼く者が、あるいは嵐をやり過ごす船が。 島は、まず「通過される場所」として記憶を蓄え始めた。
潮湧く海域に、島は浮かぶ。
そこを通る者、必ず、何かを残してゆく。 —— Setouchi local saying ・ 瀬戸内の言い伝え
十六世紀。鶴島の海域からほど近く、備讃瀬戸の中央には「塩飽(しわく)」という諸島があった。 その名は「潮湧く」の当て字とされる。世界でも有数の複雑な潮流が走るこの海域で、 島の船乗りたちは類い稀な操船術を身につけ、やがて「塩飽水軍」として全国に名を馳せた。
天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉は塩飽の船方衆六百五十人に対し、 千二百五十石の領知と自治を認める朱印状を与える。 大名でも小名でもない、ただ海を治める船乗りたちが、 一つの島嶼を「人名(にんみょう)」と呼ばれる独自の制度のもとに統べた—— これは日本の海運史において、ほとんど唯一の例である。
徳川家康もこの制度を継承した。大坂の陣の兵糧米、大坂城・江戸城の築城石。 徳川の世を支えた重い荷の多くは、塩飽の船によって運ばれた。 鶴島も、その航路上の小さな寄港地として、無数の船を見送ってきたはずだ。 島の岩肌に残る古い係留の跡は、いまも、そのことを静かに告げている。
やがて幕末、開国の機運とともに、塩飽から四十五人の水夫が長崎海軍伝習所へ送られる。 万延元年(一八六〇)、咸臨丸が太平洋を渡ったとき、 その操舵を支えたのも塩飽の血を引く者たちであった。 瀬戸内の小さな海域で培われた技が、世界の海へと続いていった瞬間である。
船を治める者、海を治め、
海を治める者、世界を見る。 —— On the Shiwaku navigators ・ 塩飽の船方衆について
江戸初期、上方と奥州を結ぶ「西回り航路」が開かれると、 瀬戸内海は日本列島の物流を支える大動脈となった。 年貢米、塩、木材、城普請の石—— この海を通らずに、近世の日本経済は成立しなかったといっても過言ではない。
塩飽の最盛期、海運王国の規模は驚くほど大きかった。 記録には、船四百七十二隻、船乗り三千四百六十人とある。 この数字が意味するのは、瀬戸内のあらゆる小島が——鶴島もまた—— 昼夜を分かたず行き交う帆影の中に置かれていたということだ。 現代の静寂からは、想像することすら難しい。
しかし、海運の中心は次第に他へ移っていく。 正徳年間、各地の廻船業者の台頭により、塩飽の航海需要は緩やかに減っていった。 一七二〇年代、塩飽の船乗りたちは航海だけで生計を立てることが困難となり、 やがて造船と建築へと技を移していった。
「塩飽大工」—— 瀬戸内の海で鍛えられた技は、寺社や邸宅の建築にも生かされ、 備中国分寺の五重塔、善通寺の五重塔、吉備津神社の本拝殿が、その手によって建てられた。 海から地上へ、動から静へ。 瀬戸内の島々は、姿を変えながら、けれども確かに、技を継承していった。
海から地上へ、動から静へ。
瀬戸内の島々は、姿を変えながら、確かに、技を継承していった。 —— On the Shiwaku Carpenters ・ 塩飽大工の系譜
明治の海運業の隆盛、戦時の徴用、そして高度経済成長期の本土集中—— 瀬戸内のおよそ三千の島々のうち、人が暮らす島は、いまや八百ほどにまで減った。 昭和三十年から平成二十七年までの六十年間で、 日本全体の人口は約四割増えた一方、離島の人口は、約六割減った。 統計の数字が、そのまま、海面に広がる静けさの密度として読める。
鶴島も、その流れの中にあった。 いつ最後の住人が島を後にしたのか、正確な記録は残っていない。 ただ、瀬戸大橋の架橋(昭和六十三年)と前後して、 瀬戸内の小島の多くが、定住者をゆっくりと失っていったことだけは確かである。 本土が便利になればなるほど、島は、本土から遠ざかった。
だが、人が降りていった島が、無価値になったわけではない。 水軍の血と、廻船の航跡と、塩の道と、神話の影—— その全てが、誰も住まなくなった砂の下に、地層として残った。 鶴島の静けさは、忘却の静けさではなく、堆積した記憶の静けさである。
島は、忘れない。
誰もいなくなった後で、ようやく、覚えている。 —— Anonymous ・ 詠み人知らず
現在の鶴島は、何もない無人島として、訪れる人を迎える。 キャンバスのテントが一張。コンポストのトイレが一基。 水と、薪と、波音と、星空。それだけだ。 けれども、その「何もなさ」は、空白ではない。 千年以上にわたって積み重ねられてきた記憶の上に、 いま、ようやく、静けさが許されているのである。
鶴島は、その記憶を展示はしない。説明もしない。 ただ、訪れる人の足の下に、地層として置いておく。 あなたが砂浜に立つとき、あなたが波音に耳を澄ますとき、 その下で、無数の時代が、静かに、共にそこに在る。 それが、サンクチュアリとしての島の流儀である。
地層の上を歩くということ——それは、現在の自分が、過去の全てに支えられているということ。 鶴島で過ごす一日もまた、いつか、誰かの記憶の下に積まれる。
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